ウェルビーイング関連情報総合ポータルサイト。ウェルビーイング関連の健康・幸せ・働き方・地域・企業・教育などの最新情報・実践知・研究論文紹介などコツコツ発信中です。
学術研究・論文

道徳の輪を広げる──なぜ私たちは「内と外」を分けてしまうのか

2025.08.27


前回の記事で、セリグマン博士が「道徳的円(道徳の輪)を広げることが次の科学的チャレンジだ」と述べたことを紹介しました。この「道徳の輪」という概念は、私たちがなぜ地球全体のウェルビーイングを実現できずにいるのかを理解する重要な鍵となります。


道徳の輪とは何か

道徳の輪(Moral Circle)とは、哲学者ピーター・シンガーが1981年に著書『拡大する輪』で提唱した概念です。これは、私たちが「道徳的に配慮すべき存在」として認識する範囲を輪で表したものです。輪の内側にいる存在には共感や思いやりを感じ、その幸せを気にかけますが、輪の外側にいる存在に対しては無関心になったり、時には敵視することさえあります。

歴史を振り返ると、人類の道徳の輪は徐々に拡大してきました。最初は家族だけ、次に部族、民族、国家へと広がり、現在では人種や性別を超えた「すべての人間」を含むまでに成長しました。しかし、この拡大プロセスは決して平坦ではなく、現在でも多くの課題が残っています。


脳科学が明かす「内集団バイアス」

なぜ私たちは道徳の輪を広げることが難しいのでしょうか。近年の脳科学研究が興味深い答えを提供しています。

脳科学研究では、内集団と外集団への共感的反応の違いが一貫して報告されています。例えば、Xu et al.(2009)による先駆的なfMRI研究では、中国人と白人の参加者が同じ人種と異なる人種の人々が痛みを受ける映像を見た際の脳活動を測定しました。その結果、内集団メンバーの痛みを観察した時には、共感に関わる脳領域が強く活性化しましたが、外集団メンバーの痛みに対してはこれらの領域の活性化が著しく減少していることが明らかになりました。

この「内集団バイアス」は進化的には合理的でした。限られた資源を自分の集団のために確保することが生存に有利だったからです。しかし、グローバル化した現代社会では、この古い脳の仕組みが地球規模の課題解決を妨げる要因となっています。


最新研究が示す希望の兆し

しかし、希望もあります。近年の研究により、共感は学習可能なスキルであることが実証されています。スタンフォード大学のジャミル・ザキ教授は著書『The War for Kindness』(2019)の中で、異なる背景を持つ人々の物語に触れる訓練により、人々の共感能力を向上させることが可能であることを示しています。

また、バーチャルリアリティを使った視点取得訓練(VR perspective-taking)に関する研究では、他者の立場を体験することで、特定の他者に対する認知的共感が増加することが報告されています(Herrera et al., 2018)。


デジタル時代の新たな挑戦


一方で、デジタル時代は新たな課題も生んでいます。SNSのアルゴリズムは私たちを「エコーチェンバー」(自分と同じ意見や価値観を持つ人々の情報だけに囲まれ、異なる視点に触れる機会が失われる現象)に閉じ込め、似た考えや背景を持つ人々の情報ばかりに触れる環境を作り出します。このような情報の偏りが、異なる集団への理解を妨げ、道徳の輪を狭める可能性があることが複数の研究で指摘されています(Molenberghs, 2018)。


日常に取り入れやすい道徳の輪拡大法

では、私たちはどうすれば道徳の輪を広げることができるのでしょうか。研究から得られた実践的な方法を、日常生活で取り入れやすい具体例とともに紹介します。

1. 物語の力を活用する

異なる背景を持つ人々の具体的な体験談に触れる。抽象的な統計よりも個人の物語の方が共感を引き出しやすいことが分かっています。

日常での実践例:

  • 毎週、異なる国や文化圏のドキュメンタリーや映画を1本見る
  • 難民や移民の体験記を読む習慣をつける
  • ポッドキャストで世界各地の人々の声に耳を傾ける
  • SNSで異なる背景を持つ人をフォローし、日常の投稿に触れる

2. 共通点を見つける

文化や価値観の違いではなく、共通の人間性(家族への愛、将来への不安など)に焦点を当てる。

日常での実践例:

  • ニュースを見る際、「この人も誰かの親/子ども/パートナーなんだ」と意識する
  • 異なる宗教や文化の祭りや行事について調べ、背景にある普遍的な願い(豊作、健康、平和など)を見つける
  • 電車やカフェで周りの人を観察し、「みんな何かしらの悩みや喜びを抱えている」と想像してみる

3. 接触の機会を作る

可能な限り、異なる背景を持つ人々と直接的な交流を持つ。オンラインでも工夫次第で意味のある交流は可能です。

日常での実践例:

  • 語学交換アプリで外国の人と会話する
  • 地域の国際交流イベントやボランティア活動に参加する
  • 職場や学校で普段話さない背景の人に積極的に話しかける
  • オンラインの文化交流コミュニティに参加する

4. 意図的な情報摂取

エコーチェンバーから抜け出すため、意識的に多様な視点に触れる。

日常での実践例:

  • 異なる政治的立場のメディアを定期的にチェックする
  • 自分とは異なる年代、職業、地域の人のブログやSNSを読む
  • 討論番組で対立する意見の両方を理解しようと努める
  • 書店で普段手に取らないジャンルの本を意識的に選ぶ

5. 動物や環境への配慮

道徳の輪を人間以外の存在にも拡張する練習をする。

日常での実践例:

  • ペットを飼っていなくても動物園や水族館で動物の行動を観察し、感情を想像する
  • 環境問題に関するドキュメンタリーを見て、自然環境の価値を実感する
  • 散歩中に植物や昆虫に注意を向け、生態系の繋がりを意識する
  • 食事の際、食材となった動植物への感謝を意識的に持つ

6. 日記やメモでの振り返り

一日の終わりに、道徳の輪に関する気づきを記録する。

日常での実践例:

  • 「今日、普段関心を持たない人について新しく知ったこと」を書く
  • 偏見や先入観を持ったと感じた瞬間を記録し、なぜそう思ったか分析する
  • 他者への共感を感じた場面を記録し、その要因を考える


地球全体のウェルビーイングへの道筋

道徳の輪を人間を超えて動物や環境にまで拡張する動きも始まっています。環境心理学の分野では、自然との一体感を育む教育プログラムが環境保護行動を促進することが実証されています。

私たちが目指す「生きとし生けるもの全てのウェルビーイング」を実現するには、まず私たち自身の道徳の輪を意識的に拡大していく必要があります。それは決して簡単なことではありませんが、科学的な知見に基づいた実践を続けることで、前進できるでしょう。

重要なのは、これらの実践を「特別なこと」として構えるのではなく、日常の自然な習慣として取り入れることです。一度に全てを実践しようとせず、自分にとって取り組みやすいものから始めて、徐々に範囲を広げていくことが持続可能な変化をもたらします。

次回は、この道徳の輪を広げることと幸福感について探ってみたいと思います。


参考文献

  • Herrera, F., Bailenson, J., Weisz, E., Ogle, E., & Zaki, J. (2018). Virtual reality perspective-taking increases cognitive empathy for specific others. PLOS One, 13(8), e0202442.
  • Molenberghs, P. (2018). Insights from fMRI studies into ingroup bias. Frontiers in Psychology, 9, 1868.
  • Singer, P. (1981). The Expanding Circle: Ethics and Sociobiology. Farrar, Straus and Giroux.
  • Xu, X., Zuo, X., Wang, X., & Han, S. (2009). Do you feel my pain? Racial group membership modulates empathic neural responses. Journal of Neuroscience, 29(26), 8525-8529.
  • Zaki, J. (2019). The War for Kindness: Building Empathy in a Fractured World. Crown.

この記事に “ありがとう” を伝えますか?
やさしい気持ちが私たちの励みになります!

大学教員(博士・心理学)。専門はリーダーシップ教育。包容力のあるやさしい社会・組織づくりのための教育に情熱を注いでいる。「リーダーシップの探求:変化をもたらす理論と実践」(早稲田大学出版部)共訳者。「Global Leadership for Equity and Inclusion in Education: Geopolitical Issues, Diverse Perspectives, and Critical Praxis」(Routledge)共著者。

関連記事

コメント

この記事へのコメントはありません。

コメントを残す